超売り手市場なのだから、クソ会社に思い知らせるためにも転職して欲しい

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色々ブコメしたので自分なりの意見。

「クソ会社にいる自覚がある人は、今すぐ転職した方が良い」

それに尽きる。

SESで有る無しに関わらず、待遇が良いところは良いし悪いところは悪い。だが、近年IT業界の待遇は急激に改善されている。

十数年間、会社を転々としながらシステムエンジニアをやってきたが、今の人手不足っぷりは、私の知る限り過去に例の無いレベルになっている。

ここ数年は採用にも関わっており、リクルート、インテリジェンス、キャリアデザインセンター、エンジャパン、他にも複数の人材紹介系会社とやりとりを行なっているが、どの会社も一様に「今は本当に採用が難しくなっている」と言う。他職種でも同様の傾向はあるが、システムエンジニアは特に難しいそうだ。

それに伴って、待遇の改善合戦が広がっている。バブル期の待遇の良さと言えば、圧倒的な福利厚生や給与だが、今は少し事情が異なる。

今は「ある程度は給与も上げる(上げないと採用出来ない)」と「残業時間の短縮や、フレックスタイム制在宅ワークなどの労働環境の自由化(払えるお金には限りがある)」の掛け合わせが多い。バブル期程儲かってるわけではないが、待遇を良くしなければ応募が来ないからだ。それ程の売り手市場になっている。

と言うことで、今正に絶好の転職チャンスが到来している。

求職者側は、基本的に転職を考えたタイミングでしか求人広告を見ないため、気付きにくい面もあるかもしれない。だが、採用側は常に競合他社の求人条件を見て(見せられて)いるため、プレッシャーを感じ、都度採用条件を改善している。こんな絶好の転職チャンスに、不満だらけのクソ会社に居続ける理由は無い。

将来の戦力候補に対する採用競争も激しいため、最低限の技術力(1つ以上のプロジェクト参加経験、2年以上のプログラミング経験)を備えた人であれば、まともに転職活動すれば必ず今よりマシな会社でマシな待遇を受けることが出来る。もちろん、最低限の技術力が無い人はその限りでは無い(そういった人はエンジニア志望であって、エンジニアでは無いため)。

※尚、この状況においても氷河期世代(超ハイスペック除く)は対象外とされている。酷い。

クソ会社から転職する人が増えれば、人材が待遇の良い会社に集まり、人手の無くなったクソ会社が苦境に立たされるようになる。昔は机上の空論だったが、今はそうでは無い。良い待遇の会社がかなり増えている。

ネット上で声を上げるのも大事だが、もっと直接的な打撃を与え、且つ自分も救われる道が今はある。だが、そんな状況は、この売り手市場以外ではありえない。

もし、クソ会社に搾取や飼い殺しにされている人がいたら、是非、この機会を生かして、自分の状況を変えつつ、悪質な会社に打撃を与えて欲しい。

それは、恨みつらみを溜め込んだ自身への救済策であり、社会悪への正義でもある。

生活保護を認める理由は「自分もそうなる可能性があるから」では無い

自分もいつ生活保護を受ける側にまわるかわからないはずだ。だからこそ生活保護を受ける人に対して、寛容でなければならない。そういった理屈を訴える人をよく目にする。

本当にそうだろうか。

未来は誰にもわからないが、将来の可能性は平等ではない。既に資産を持っている人が貧しくなる可能性は、資産を持っていない人に比べて低い。孫正義生活保護を受けることになる未来を想像する人はいないだろう。

孫正義程のレベルにならなくとも、「東京に持ち家を持っている」のと「田舎で資産価値ゼロの借地権の実家しか持っていない」のでは大違いだ。ちなみに私は後者だが、相続後、家を取り壊して土地を返さなければならないらしいので大変気が重い。いくらかかるんだろう。

前者のような金銭的強者に「自分もいつ生活保護を受ける側にまわるかわからない」は通用しない。可能性としてゼロでは無いのかもしれないが、限りなく低い可能性を持ちだして「あなただって」と言っても理解を得られるわけがない。

また、日本の生活保護受給者が少ない要因に、個々人の信念がある。どれだけ貧しくても施しは受けないという信念を持っている人。他人に迷惑をかけるくらいなら餓死しても構わないという人。そういった人は、どれだけ貧しくなっても生活保護を申請しない。

こういった人達に「自分もいつ生活保護を受ける側に回ることになるかわからない」という理屈は意味を持たない。「自分も」というのは、「あなたにも利があるから」という説得方法だが、相手がそれに利を感じていないなら意味が無い

違いを認めるべきなのではないか。

私は、生活保護を身近なこととは捉えていない。この先、生活保護受給者には多分ならない。幸運にも、たまたまそういう境遇にいる。

生活保護を必要とする人達は、なんらかの理由でそういった境遇にいられなかった人達だ。やむを得ない事情の人もいれば、自己責任の人もいるだろう。

理由はどうあれ、彼らはお金を稼ぐことが苦手な人達だ。

彼らは、たまたまお金を稼ぐのが苦手だった。私は彼らに比べて、たまたまお金を稼ぐのが得意だった。ただそれだけのことだ。無理に同じ立場を想定する必要は無い。

今の世の中は、お金が無ければ生きていくことは難しい。生活保護を認めないのであれば、お金を稼ぐのが苦手な人は生きていくのが難しくなる。ある特定条件における弱者が、生存権を脅かされることになる。

私は多分、この先も生活保護を受けることは無い。だが、ある特定条件において弱者になっただけの人にも、出来れば生きていてほしいと思っている。だから、自分には関係ないが生活保護は充実してても良いと思っている。

もっと言えば、お金を稼ぐ能力の低い人が、生存権すら認められない国になってもらっては困るとも考えている。命すらままならないと知れば、いくら大人しい国民性とは言え、そういった人たちも黙ってはいないだろう。死ぬのと犯罪者になるの2択であれば、犯罪者を選ぶ人の方が多いだろう。

「そんな2択には誰も参加しないで済む世の中の方が良いから」

生活保護を認める理由はそれで良いのではないだろうか。

都会と田舎の賃金格差は不当なのだろうか

私は田舎出身だ。

夜になれば街灯の少ない道は足元も見えなくなり、夏~秋は虫の鳴き声が激しすぎて耳が痛くなる。友人の家に行くのにバスを利用するのは普通のことで、最終バスは17時台だ。そんな田舎で、私は生まれ育った。

中学生まではその生活で何の問題もなかったが、高校生になると多少はお金が必要になってきた。服を買うでもない、娯楽施設に出かけるわけでもない。しかし、通学時間が延び、部活に顔を出す必要も生じたため、結果、帰宅が遅くなり、買い食いなどの機会が増えた。

そこでアルバイトを始めた。私のアルバイト経験は、今世間で言われているような「田舎は大変」とは程遠いものだった。

田舎の仕事事情は、表では「仕事が無い」「低賃金」という側面にフォーカスされがちだ。それはその通り、事実と言える。しかし、田舎の仕事事情は、そんな負の側面だけで構成されているわけではない。

仕事が楽なのだ。

当たり前だが、「仕事が無い」と言われるくらいなので、仕事がある場所であっても仕事の総量は少ない。大都市圏のように、激しい競争を繰り広げて、昼夜を問わず仕事をしている人はほとんどいない。悪い意味だけでなく、良い意味でも仕事が無い

例えばコンビニの夜勤などは都会とは比較にならない。都会のコンビニは、いつ訪れても数名の客が居るが、田舎のコンビニは本当に客がいない。棚卸し作業などは発生するが、日によっては客が一人も訪れないことすらある。

高校卒業後、コンビニの夜勤で生計を立てていた友人は、いつもレジ横にある控室にいて、客が来た時だけ対応していたという。朝までに5人以上来ることは珍しかったので、非常に楽な仕事だったそうだ。彼はバイト中に十分な睡眠をとり(細切れだが)、朝になるとパチンコ屋に出かけていくのが日常だった。

ここで一つ疑問がある。都会と田舎の賃金格差がたびたび話題になるが、田舎の賃金が低いのは不当なのだろうか。

日本人のサービスに対する意識は過剰だ。地方であっても、都会同様のサービスを求められる。それなのに、賃金だけが安いとなれば不満が出るのは当然だろう。

また、物価も都会と田舎で大差はない。大差があるのは家賃など不動産が絡むものだけだ。競争原理の関係で都会の方が物価が安いことすらある。これで田舎の方が賃金が低いのだから、最低限の生活を営むのすら難しい人が出てくるのは、想像に難くない。

しかし、労働者が提供するサービスの総量は、都会と田舎で雲泥の差がある。1日に100人しか客の来ないコンビニと、1日に2000人の客が来るコンビニ。全く同じ賃金が支払われるとしたら、あなたはどちらで働きたいと思うだろうか。控室で十分に休憩をとりながら働ける環境と、座る間もなく働き続けなければならない環境、どちらを望むだろうか。

客が多いということはたくさんの売上を生むということでもある。たくさんの売上を生んだ人が、そうでない人とほとんど変わらない賃金しか受け取れないのは正当だろうか。

生み出した経済価値と受け取る報酬は比例すべきだ。しかし、生活に必要な予算と、その人が生み出せる経済価値は比例しない。そして、能力に関わらず経済価値を生み出しにくい土地がある。

田舎で十分な生活費を稼ぐのが難しいのは事実だ。しかし、十分な経済価値を生み出せない以上、賃金だけを上げるのが難しいのも当然だ。これは、国や自治体が対応すべき課題で、賃金で対応すべき課題ではないのではないか。

本当に賃金格差は不当なのだろうか。

単純に「田舎でも、生活に困るからもっと賃金が欲しい」という話であれば理解は出来るのだが、都会との賃金差を「不当」と捉えるのは間違っているのではないだろうか。

追記

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発想として悪いことだとは思わないが、これを実現すると、地方からはコンビニやファストフードが消えるだろう。

ふなっしーになりたかった

中学生の頃、技術工作の授業で「発明品を考えなさい」という課題が提示された。

当時MDプレイヤーに強い興味を持っていた私は、「パソコンのようなHDDに保存できれば、もっと大量のデータを持ち運べるのではないか?」と考え、HDD型音楽プレイヤーの提案を行った。

もちろん、当時の私には作り方はわからない。だが、例としてあげられた「空が飛べる車」に比べれば、比較的現実的な提案のように思えた。自分の提案に自信があったわけではないが、懸念点なども自分なりに調べたり、そこそこ頑張って作り上げた自負はあった。

しかし、提案の結果は散々だった。

「もっと大きな発想をしないと駄目」「興味が持てない」「出来ると思えない」など、辛辣なコメントが並んだ。生徒からの評価であればまだしも、技術工作の教員からこういった評価をされるとは思ってもみなかった。ノートPCも一応は存在しているというのに。

この件以来、大人に自分の発想を伝えるのは辞めた。これからは、自分で作り上げて自分で発信していく。そう決めた。

高校に入り、念願のデスクトップPCを手に入れた。

当時はまだパソコン通信からインターネットに切り替わったばかりの時代。GoogleAmazonのような覇権企業も存在せず、未開の地が広大に広がっていた。何の知識も持っていないにもかかわらず、「ここが自分の戦場なのではないか?」と無意識に感じていた。

何かこの未開の地でビジネスをやってみたい。まずは出来ることから、と古本屋でperlの本を立ち読みして掲示板を作ってみた。Yahoo掲示板など人が集まるところで宣伝し、当時唯一のASPだったサイバークリックの広告を貼って運営を始めた。

レンタル掲示板は儲からなかった。英語を必死に調べながら取得したドメイン代も、レンタルサーバ代も回収できなかった。

その頃、Web市場ではポイントサイトやアフィリエイトサイトが流行りだしていた。当時捻くれた子供だった私は、「そんな社会悪に手を染めなくても、自分ならWebサービスで一発当てられる」と、馬鹿にしていた。当時最新技術だったjavascriptも勉強し、自分の思う面白いサービス、良いサービスを色々作ってみたが、結局何一つ受けなかった。

若い時期にありがちな、「自分は何かを持っている」という勘違いがあったのだろう。儲けるチャンスに接する機会も何度かあったが、「自分はこいつらとは違う」と頑なに拒否を続けていた。

高校生で起業を夢見て、その後も色々やってみた。

友人の父が経営する会社のホームページを作ったり、農家から仕入れた農産物をヤフオクで売ったり、海外のデスクトップ広告を物理的にハックしたり(物理的にマウスを自動操縦など)。

段々と泥臭い素人ビジネスに進んで行ったが、まだ自分の才能を信じていた。

大学に入っても、状況は変わらなかった。

私はとにかくビジネスがやりたかったのだが、友人の興味は皆色恋沙汰だった。大学に入れば仲間が出来るかもと期待していたが、私の話に興味を持つ友人はいなかった。期待していたコンピューター関係の講義も、私の期待するものではなかった。

段々大学に行かなくなり、ビジネスへの興味も急激に失せていった。

私がそこからはまったのは、ネットゲームとテキストサイトだった。生産性も何もないが、テキストサイトにはかつての「自分は何かを持っている」を感じさせてくれる何かがある気がした。だが、私は何も持っていなかった。2年程度でひっそりとサイトを閉鎖した。

私は何も持っていなかったことを全て理解し、卒業後、サラリーマンとしての道を歩むことを決めた。「大多数のうちの一人で良い、自分に出来ることをやっていこう」と、小さなシステム会社に就職した。

サラリーマンとしての日常は甘くなかった。莫大な量のサービス残業に、上がらない給与。そんな状況に良くも悪くも慣れたタイミングで、久しぶりに衝撃を受ける出来事に出会った。ふなっしー氏の登場だ。

みうらじゅん氏が好きだった私は、ゆるキャラには一定程度の造詣があった。「ゆるキャラブームが今後来るのではないか?」という思いもあったが、自分には関係のないことと考えていた。

しかし、ふなっしー氏は違った。勝手に参戦し、勝手に行動し、勝手に売れて勝手に成功してしまった。

私も、色々な市場に勝手に参戦してきたとは思う。勝手に行動もした。だが、一度も売れず一度も成功しなかった。

理由は色々あるだろう。私にはふなっしー氏程の行動力は無いし、収益化を上手く進める手腕も無い。道化になりきることも、無駄なプライドが邪魔してできない。

しかし、サラリーマンとして落ち着いてしまった今、一つだけわかることがある。私が目指していたのは、ふなっしー氏のような人生だった。誰かが用意してくれた道ではなく、自分で道を切り開いて成功したかったのだ。

私は、ふなっしーになりたかった。