ふなっしーになりたかった

氷河期サバイバーの雑記

「お前の家事は家事じゃねえ」相互理解が不可能なのは、人それぞれ、見ている景色が異なるから

我が家では、「料理」の主担当は私(夫)ということになっている。

理由は、単純に私が料理好きだからだ。100%全ての料理を担当しているわけではないが、朝も夜も(昼は家にいない)基本的には私が「料理」を担当している。

さて、この話を聞いて、あなたはどういった感想を持っただろうか?

ネット上などで、夫が料理を担当するという話はそこそこ目にするが、それに対する反応は主に2パターンに分かれる。

  • 1.家事の中で負担の高い料理を夫が担当することには価値があるという肯定的な反応
  • 2.そのくらいで家事をやった気になるなという否定的な反応

1と2は真逆の反応だ。1は肯定的、2は否定的。なぜ、こうも意見が割れてしまうのだろうか。

私は「文章などの情報からイメージする情景が異なるから」だと思っている。

例えば、以下は、私が考える「家事における料理」に必要な作業の一覧だ。

  • 冷蔵庫に入っているものの把握、管理
  • 調味料や乾物などの在庫の把握、管理
  • 足らない食材や調味料などの買い出し
  • 食器の洗浄、乾燥、食器棚への保管
  • シンクの掃除、ゴミ捨て
  • 調理、盛り付け

細かく書けばまだ色々とあるが、大まかに言えばこんな感じだ。全てを完璧にこなせているかと言われると自信は無いが(妻が手伝ってくれることもある)こういったことを日課としている。

しかし、知人の既婚男性の中には、料理を以下のような作業だと思っている人もいる。

  • パスタマシンを購入して、生パスタを作る
  • 国産牛ひき肉を大量に使ったこだわりのボロネーゼを作る

確かにこれも料理なのだが、家事における料理としては極々僅かな一工程でしかない。家事というのは毎日行うものなので、「片づけ・在庫チェック・ゴミの廃棄や必要素材の買い出し」がなければ、次回の料理が成立しない。つまり、彼の考える料理は家事における料理としては成立しない

しかし、彼は「時々料理とかするし、割と家事してる方」と考えている。つまり、私とは家事に対する認識が全く違うということだ。

私と彼の認識が全く違うように、どんなものごとであってもそれぞれが思い描く状況は全く異なる。パスタ野郎の奥さんにとっては、料理をする男性のイメージ=パスタマシンであって、家事とは程遠いものとなるだろう。

冒頭での質問に「2:そのくらいで家事をやった気になるなという否定的な反応」を返してしまう人の多くは、そういった人なのではないだろうか。

昨今のネットでは、様々なことに対して議論が尽きない。議論そのものは悪いことではないが、一方的な決めつけも蔓延している。

私自身も気を付けなければならないと感じているが、自分が受けた印象や想像する状況は、自分だけのものでしかないということを、意識する必要があるのではないだろうか。

なお、冒頭の質問に対する反応が「肯定 or 否定」になってしまいがちな現状に関しては、あまり良い世の中ではないなと感じている。「あなたの担当は食事なんだね」くらいの、「それが普通」という感想を大多数が持つようになった時、本格的な変化が訪れるのだろう。

本当に会社を滅ぼすのは、無能な働き者とそれを評価する無能な上司

下記の記事のブコメが結構荒れていた。

delete-all.hatenablog.com

ブコメでも書いたのだが、この「頑張ったけどダメでした」をアッピールする人に対する印象というのは、管理職を経験しているか否かによって大きく変わる。人は自分の立場により近い人に共感するためだ。

「頑張ったけどダメでした」をアピールしないと怒る上司もいれば、「頑張ったけどダメでした」とアピールすることで怒る上司もいる。つまり、報告者の立場に立てば、相手のタイプによって対応を変えるのが正解で、誰にでも通用する対応など存在しない。

その立場から見れば、「頑張ったけどダメでした」が会社を滅ぼす、なんて言われたら良い気はしないだろう。そうせざるを得ない環境があるのだから。

ただ、私はどちらかというと管理層の立場にいることもあり、また別の感想を持った。

それは、「頑張ったけどダメでした」の全てが悪いわけではないが、致命的な「頑張ったけどダメでした」も存在するということだ。

結論から書くと、致命的な「頑張ったけどダメでした」は、無能な働き者が「頑張ったけどダメでした」を行い、無能な上司がそれを許容してしまうケースだ。

知っている人も多いと思うが、ゼークトの組織論という有名な軍事ジョークがある。

将校には四つのタイプがある。利口、愚鈍、勤勉、怠慢である。多くの将校はそのうち二つを併せ持つ。 一つは利口で勤勉なタイプで、これは参謀将校にするべきだ。 次は愚鈍で怠慢なタイプで、これは軍人の9割にあてはまり、ルーチンワークに向いている。 利口で怠慢なタイプは高級指揮官に向いている。なぜなら確信と決断の際の図太さを持ち合わせているからだ。 もっとも避けるべきは愚かで勤勉なタイプで、このような者にはいかなる責任ある立場も与えてはならない。

クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト - Wikipedia

これは、ビジネスの世界でも「愚かで勤勉なタイプ」を「無能な働き者」に言い換えてよく使われる。無能な働き者は、無能で怠慢な人間より遥かに害悪であるという指摘である。

この「無能な働き者」を「無能な上司」が評価してしまった時に地獄が生まれる

無能な上司が「頑張っているから」と重要な役割を与えてしまい、能力が低いため余計な行動ばかりとってプロジェクトに大損害を及ぼしながら「頑張ったけどダメでした」で許容されてしまう。これが続くと本当に会社は崩壊する。

これは営業に限った話ではなく、例えば、無能な働き者が「業務フローの最適化」などを張り切って始めてしまうと、手に負えないことになる。主観で無駄な工程を増やした上、本来必要なフローを「効率化」と称して削ってしまい、結果的に工数が増大した上、品質が大きく下がったなどというケースも見たことがある。

こういったケースを何度も目撃している管理職経験者からすると、(無能な働き者が)「頑張ったけどダメでした」みたいなことを言っているのを見ると、文句の一つも言いたくなる、という気持ちはよく理解できる。

ただ、管理者たるもの、理解しておかなければならないこともある。この「頑張ったけどダメでした」を致命的にするのは、本人ではなく上司だということだ。

まず、負けたら困るコンペの責任者や、社内のフロー最適化、開発チームリーダーなど重要な立場にそういった人を選定しなければ、致命的な事情は発生しない。仮にそういった選定が行われているのであれば、上司の見る目がおかしいか、そもそも会社の人材不足としか言いようがない。人材不足なら、その会社ではそういった事情が起きるのも仕方がないということだ。やるべきことは該当者の叱責ではなく、会社の環境改善だ。

そして、該当者の選定以上に重要なのが、その該当者を選定してしまう無能上司の存在だ。こっちは根が深く、中々排除出来ないという現実もわかるが、「頑張ってる気がするから彼(彼女)に任せたい」とか「頑張った結果だから仕方ない」といったお気持ち以外の判断基準を持たない上司こそが、この問題の根底と言える。

はてなでは、何でも上司が悪いとする風潮があるが、残念ながら、それは一定程度正しい。問題社員を採用するのも、問題社員を抜擢するのも、問題社員を評価するのも、全てはその上司の裁量上にあるからだ。

管理職の立場からすると辛い現実ではあるが、「頑張ったけどダメでした」以上に、「頑張って(人を)選定したけどダメでした」には問題があることを自覚する必要があるだろう。

正義は勝たず、悪は栄える

「悪は栄える」これは今も昔も不変の現実だ。

あらゆる物事にはルールがある。スポーツでも、仕事でも、日常生活でも。ルールを破ればたちまち何らかの制裁が行われるため、ルールを破る人は少なく、また「ルールを破る行為は損」だと、思われている

だが、実際には、ルールを破ることで即制裁につながるようなことは少ない。というよりも、ルールを破ると制裁を受けるのではなく、ルールを破ったことが公になり、追求されることで初めて制裁につながる。つまり、バレなければ、バレても追求されなければ、ルール違反でマイナスを被ることはない。

世の中の成功者はこれを知っている。

普通の人は、ルールを守ることに固執する。それは道徳的には素晴らしいことだが、その分のチャンスを逃している。

一部の人は、ルールを守った方が得なケースと、ルールを破りながらそれがバレないよう対処した方が得なケース、両方を考える。

単純にチャンスが2倍というだけではない。ルールを破ることにリスクが存在するため、その選択をする人は少ない。つまり、競争相手が少ないということだ。チャンスも多ければ、勝ち残る可能性も多くなる。

例えば、多くの経営者はルールを破っている。労働基準法を正しく守っている会社は少数派だ。労働基準法を破っても、日本では追求されない。破っても問題ないルールなら平気で破る。それで多額の利益を得ることを、一部の人は選択するし、結果を見ればそれが正しいというケースは少なくない。その人にとっては、だが。

また、法律以前の問題で、「この報酬格差はありえない」というケースも多々存在する。これは、法律違反ではないので、法律上は正当な行為だ。だが、自分だけが特別に利益を得ることを良しとしない、公平な姿勢はそこにはない。これを平気でやれる人が、世の中では成功者となる。

さらに、世の中には驚くほど詐欺が横行している。訪問販売や情報商材など目立つものばかりが叩かれているが、普通の会社の普通の営業も相当に酷い。ありもしない効果を謳い、必要無いものを必要と思い込ませるために洗脳し、下請けから買い叩いた商品を何倍もの値段で売りつける。それで利益を得ている。

こういった事情からわかるように、世の中は、悪が利益を得るチャンスを得、善はそのチャンスを失ってしまうという状況になっている。

善には善で、真面目さ、正直さの見返りがあると思いたい。しかし、社会を知れば知るほど、成功者を知れば知るほど、会社の仕組みを知れば知るほど、圧倒的に悪が有利な現実がわかってしまう。

私はたとえ勝者になれたとしても、悪に成り下がりたくないという思いがある。しかし、勝ち目のない戦いにさらされて敗者になるのもごめんだ。第3の道は、不利な状況で勝つという道だが、そんなことが出来ると思うほど自惚れてもいない。

この残念な現実の中で、皆はどう折り合いを付けているのだろうか。

「誰にも負けないことを一つ作る」は効率が悪い

個人的にはうなずける部分も多い記事だったのだが、プチ炎上していた。

note.mu

タイトルと出だしが明らかに間違っているのは事実だが、本文そのものは「スキルの掛け合わせにより、富・名誉を効率く良く手にする方法」の考察で、私が収入アップのために考え、実践してきたことに近い部分も多く見られた。

ということで、以前書いたまま公開せずにお蔵入りさせていた記事で「就業すること」に限定したコスパの話があるので、良かったら読んでいただきたい。


「誰にも負けないことを一つ作りなさい」

会社や転職市場での自己価値を高めるための考えとして、上司や転職アドバイザーなどから言われたことがある人も多いのではないだろうか。

これは完全に間違っているというわけでもないが、非常に効率が悪い考え方だ。そういったアドバイスをしてくる人は、大抵、自分が誰にも負けない何かを持っていると「思い込んでいる」か、理想をそのまま口に出してしまっているロマンチストだ。多くの人は、実務として使える誰にも負けない能力など持っていない。

ではなぜ「誰にも負けないことを一つ作る」という思想を持つ人が多いのか。話は単純で「出来るのであれば」間違いなく理想形の一つとして、誰もが納得する考えだからだ。

スペシャリストで構成された集団という構図には夢がある。最高のエンジニアが最高のものを作り、最高の営業が高い利益を乗せてそれを売ってくる。そして、それらを率いる最高の経営者。

映画でも漫画でも、創作の世界ではこういったスペシャリスト集団がよく登場する。それぞれの個性がわかりやすく、キャラが立って魅力的になるからだ。しかし、現実の私たちはそんなに個性的でもなければ、魅力的でもない。

更に、私たちには架空の物語に出てくる主役級のような才能もない。努力しても、「誰にも負けない」どころか平均よりちょっとマシになれるかどうかすらわからない。私たちの多くは「村人A」にすらなれず、存在すら認識されないその他大勢として生きている。

そんな私たちが、「誰にも負けないことを一つ作る」のは至難の業だ。

私たちは生きるために働かなければならない。才能の有る無しに関わらず、生きるためには無能の烙印を押されない程度の、最低限の評価を勝ち取り続ける必要がある。そんな私たちが取るべき戦術とは何か。

それは「チョイ足し」だ。手持ちのスキルにチョイ足しして、「そんなに凄いわけじゃないけど、この人便利」と思われるポジションを狙う。

  • 営業:0
  • 開発:60
  • 企画:20
  • 事務:10

のステータスの人がいたとする。本当はもっと細かく細分化されるが、サンプルはこれとする。

彼の専門は開発だ。部署も製品開発部に所属している。開発の際に企画に参加することも有り、企画力は少しだけ持っている。営業力は皆無だ。

専門が開発と言っても、社内には開発力80以上の猛者が沢山いる。彼のステータスは中の下くらいだ。もう少しで落ちこぼれとして認定されるギリギリのところにいる。

彼が開発力を60から70にするためには、かなりの労力を要する。しかし、0の営業力を20にするのはそれ程難しくない。趣味でもなんでも、始めたての頃はドンドン上手くなるが、ある程度以上になると伸び悩むのと同じことだ。

こういったケースでは、営業力を最優先で「ちょっとだけ」強化し、可能であれば企画や事務能力も「ちょっとだけ」強化すると、「評価を受けやすい環境」を作りやすくなる。

「開発が営業力つけてどうするの?」と思うかもしれない。しかし、これが思った以上に役に立つ。営業力を20まで身に着けると「営業のことをわかってくれる開発者」として共感を集めやすくなり、他のハイスペック開発者を差し置いて様々な相談が舞い込んでくるようになる。また、事務能力を鍛えることで、電話など顧客対応の機会が発生した時にも「あいつは他の開発とは違う」と評価されるようになる。

これはわかり易い例だが、会社の業務に関わるスキルであれば、同じように「誰かしら評価してくれる」という状況を作るのに役に立つ。上司は自分だけを見て評価しているわけではなく、周りの人の言動や行動も見ている。それはサブリミナル的に刷り込まれる。

評価というのは、どれだけ厳密にしたつもりでも、かなり曖昧になるものだ。

「あいつよく相談受けてるな」 「エンジニアなのに電話対応しっかり出来てるな」

こう思われると、例えそれが評価指標に入っていなかったとしても、「あれはあれで役に立つ能力」と勝手に加点されて評価されるようになる。

大企業では組織がしっかりしているため、この作戦はあまり生かせないかもしれない。しかし、中小企業では組織なんて曖昧なものだ。どうせ評価基準も曖昧なのだから、それを利用してやれば良い。

誰にも負けないことを作るためには、優れた才能とたゆまぬ努力が必要だ。しかし、才能も無ければ、そんなに努力もしたくないというのが普通の人なのではないか。

そんな普通の人が目指すべきなのは、効率の良い努力だ。

出来るだけ少ない手間で、出来るだけ多くの評価を得ることを考える。自分の業務を限定せず、幅広い人から評価を得るための能力形成を考える。やみくもに努力するのではなく、頭を使って生き残るための策を練り、実行する。

そんな考え方つまらないと思う人もいるかもしれない。しかし、このやり方にはスペシャリストとは異なる可能性がある。

幅広く色々やることで、今まで気づかなかった自分の才能を発見出来るかもしれない。今までやってこなかった分野の経験が、自分の専門分野でも生かせるかもしれない。関わる人が増え、良い師匠に出会えるかもしれない。色々やった結果、ジェネラリストとして大成するかもしれない。

もちろん、専門性を突き詰めたいという人はそうすれば良い。そう思えること自体が才能かもしれない。

だが、それが出来ない、やりたくない人にも、色々道はある。

誰にも負けないことが無くとも、誰もが認める実力者になれる可能性は十分にある。

「年齢相応」の考えがある限り、氷河期世代が報われることはもう無い

www.yutorism.jp

言っていることには同意できる部分も多いが、若いからか「もう氷河期世代には逆転のチャンスがほとんどない」という問題について、あまり理解が無いようにも見えた。

氷河期世代とは、1993年から2005年に就職した人たちを指す言葉だ。

新卒での就職タイミングが人それぞれ異なるため、現在35~45歳前後の人が当てはまる。留年や浪人を考えれば、50歳でも就職氷河期に含まれる人もいるかもしれない。もう十分に「大人」であり「経験豊富」な年齢の人たちだ。

日本では「年齢相応」という考え方が根強い。「20歳を超えたらこれくらいの分別は~」「30歳にもなって常識が~」など、年齢と合わせて苦言を受けた経験のある人も多いだろう。「いい年して」もその一種。外国のことはよく知らないが、少なくとも日本では「年齢に応じて、能力の向上や精神的な強さを身に着けるのが当たり前」という考えが一般化されている。

これは就職現場にも当てはまる。

日本企業では「〇〇歳なら、このくらいの経験が欲しい」といった見方で、候補者を見ることが多い。例えば、私のいるIT業界なら「20代後半までなら、3年以上の開発経験があればOK」とか、「30代ならチームリーダー経験が欲しい」とか「40代ならプロマネ経験が欲しい」とかになる。もちろん、これは企業ごとに考え方も求める人材も異なるため、一律というわけではない。ただ、年齢が上がれば上がるほど、自己学習ではどうにもならない経験を求められるようになる傾向が強いのは大体共通している。

人によっては、これは当たり前のことに見えるかもしれない。高校や大学を卒業し、新卒で企業に就職し、数年働いて部下を持ち、リーダーとして経験を積み、より大きなプロジェクトに所属するようになり、プロジェクトを率いるマネージャーになる。ごくごく自然な日本企業的成長ストーリーと言えるだろう。しかし、これが当たり前でない人が今は沢山いる。

1986年に施行された労働者派遣法により、限定的だが、派遣社員が登場した。1996年に対象業務が拡大され、1999年には対象業務が原則自由化された。さらに、2000年には紹介予定派遣が解禁され、その後も派遣期間の延長や、派遣可能業務の拡大が続いていった。

好景気であれば、派遣社員もそんなに悪いものではなかったのかもしれない。会社に縛られずに働きたい人が、自ら選択する就業形態として選ぶというケースも実際少なくなかった。しかし、1991年のバブル崩壊以降、日本は失われた20年と呼ばれる、長期間の景気低迷に陥ってしまった。

氷河期世代と呼ばれる1993~2005年に就職した人たちは、その被害をまともに受けてしまった。バブル崩壊で業績が悪化した企業が、人件費抑制のために派遣社員を利用し、行政もそれを後押しするように次々に派遣の規制を緩めていった。結果、今では労働者の37.3%を非正規が占めるようになっている。

非正規労働者の厳しい点は、給与の低さや福利厚生の貧弱さもあるが、それ以上に成長機会が少ない点にある。ある程度の期間働いたことがある人なら知っていると思うが、非正規労働者に回ってくる仕事というのは、ルーチンワークと雑務が主になる。例外的に、社員ができない仕事を押し付けられるというケースもあるが、社員のように教育機会が無かったり、協力が得にくい立場だったりするので、業務の遂行自体が困難なケースが多くなる。

そして、さらに厳しいのは経験した職務内容に関わらず、就業形態が非正規雇用というだけで、社会的評価が低くなるという点だ。

一般的に、人事が職務経歴書を見る場合、非正規雇用での経験はおまけ程度の扱いとしてしか見ない。コネ入社の正社員(役職者)で仕事はほとんどせずに寝ているだけの人と、非正規雇用で実質的な現場責任者を比べた場合、書類上の評価が高いのは圧倒的に前者だ。

ということで、すでに40歳前後の年齢となり「年齢相応」で求められる経験がかなり高度なものとなっており、且つ就職難で非正規雇用を選ばざるを得なかった人は、雇われという立場で報われるのはかなり厳しい状況にある。かと言って、低収入で蓄えを作るのが難しく、コネも作りにくいのが非正規雇用という立場だ。起業して上手くいく可能性も低いだろう。

普通、こういった記事では、最後に救済案や「こうすれば上手く行く」みたいな話を書くのがセオリーなのだが、残念ながら、私にはそのアイデアは無い。強いて言えば「若い人が敬遠する仕事であれば、需要はある」くらいだ。

「年齢相応」の考えは雇う側だけでなく、雇われる側にもある。雇われる側が「年齢相応」の待遇を望まず、新卒レベルの待遇を受け入れるのであれば、人によってはチャンスもあるのかもしれない。それがチャンスと呼べるのか疑問ではあるが。

会社を選ぶ際は、役員の前職に注目すべし

転職の際、「出来るだけ自分にあった会社を選びたい」と思うのは当然のことだ。

求職者は、業務内容、組織体制、社風、その会社が扱っているサービスの内容、規模など、様々な要素を見て、自分にあった会社を探している。しかし、求人広告におけるこれらの内容は、規模を除いてあまりあてにならない

業務内容が入社後に変化するのは当たり前。社風なんていくらでも嘘が書ける。サービスの内容はパッと見が良さそうなものだけを掲載しておき、入社後に担当することになるサービスは全然別物というのもよくある話だ。

とはいえ、何の情報もなしに会社を選ぶのは難しい。誰でも知ってる有名企業ならともかく、中小企業が何をやっているかなんて誰も知らないのが普通だ。そこで、私がいつも参考にしている、会社の雰囲気をつかむのに最も参考になると考えている事項をお伝えしたい。

それは、経営者(役員)の経歴だ。

会社には必ず経営者がいる。会社は、本質的には経営者の夢をかなえるための場所だ。ルールも、重視するものも、全て経営者が決める。「従業員がルールを作る」みたいな会社もあるが、経営者の意思に反するルールは絶対に作れない

つまり、社風には必ず経営者の思想が反映される。そんな経営者が、「今まで何をやっていた人なのか」を見れば、その人の考え方がある程度見えてくるということだ。

人の考え方は今までの経験に大きく左右される。

営業経験の長い人であれば、重視するのはもちろん売上。売上を重視しない経営者はあまりいないが、商品開発などの経験が長い経営者は、売上よりも会社の技術力や製品の品質を優先する傾向がある。コンサル出身では、人を説き伏せるような能力を重視する人に多く出会っている。

全て最終的には売上、利益といったかたちに集約されるが、そのために何が必要と考えるのかは、人それぞれということだ。何でも無理矢理売ればいいと思ってる人もいれば、良いものを作れば売れると思っている人もいる。実際にはそこまで単純なわけではないが、考え方の根底を支えるものは存在する。

人それぞれではあるが、人は自分の過去を肯定し、美化する傾向がある。そして、経営者になるような人の多くは、過去になんらかの成功体験を持っていることが多い。その成功体験が、自身の経営哲学に繋がるのは当たり前のことだ。

では、それをどうやって利用するのか。

大雑把に言えば、自分と似たような職種を経験してきた経営者が運営する会社であれば、自分の職種が重要視される可能性は高いと言える。現場をよく知っているだけに、自分の望む社風を伴っている可能性も高いだろう。

しかし、その分だけ厳しい目で見られる可能性も高くなるだろう。他職種より難易度の高いことを要求され、出来なければ「使えない」と思われることもあるだろう。

もっと細かい話もあるが、それは別の機会に。

私自身転職を多く経験しているため、様々な経歴を持つ経営者の元で働いて来たが、驚くほど経営者は前職の経験を引きずっていると感じている。

自分の職種に詳しい経営者の元で働けば、重要視されるが、要求は厳しくなる。逆に、自分の職種のことを全く知らない経営者の元で働けば、適当な扱いを受ける代わりに、仕事が出来なくてもバレなかったりする。制度は重要視される職種を中心に作られる。

自分の今のレベルに合わせて、経営者の経歴を見ながら応募してみよう。予想以上の成果、気づきが得られるはずだ。

なお、複数の役員を抱える会社で、自分と同職種出身の役員がいない会社は避けた方が無難だ。その職種では「出世出来ない=扱いが悪い」ケースが少なくない。

残業時間で成果を測る裁量労働制の会社に所属していました

この辺の記事がちょっと気になったので書きました。 裁量労働制は、時間からの解放を意味しないという実例です。

bonotake.hatenablog.com news.tbs.co.jp

10年以上前のこと。

私が新卒で入社した会社は、入社初日から、全社員が裁量労働制で働く契約になっていた。

当時は、裁量労働制について、政府や経団連が言っているような「時間にとらわれない自由な働き方」というイメージが少なからずあったため、私自身もそれを望んでいた。 「就業経験が全くない新人に裁量?」と疑問も浮かんだが、「すぐに裁量を手に入れ、大きな成果を上げ、高い報酬を受け取れるだろう」という謎の自信がその疑問を打ち消した。

入社後、新人は4人1組のチームに分けられ、電話番をしながら独学でプログラムを学ぶという業務が与えられた。 「電話は必ず1コールで取る」との指示があり、それを達成するために、席を立つ際は必ず報告する義務があった。 9時から朝礼、電話番のため19時までは着席必須、トイレに行くのにも許可がいるという環境で、裁量は全くなかった。

数か月後、電話番の仕事がようやく終わり、プロジェクトに配属されることになった。 プロジェクトの内容は、商品のベースとなるシステムの改修。4人1組で半年~1年かけてシステムを改修するという業務だった。

「ようやくプログラムが書ける」と最初はチームメンバー全員で喜んでいたが、開始して約3か月が経過した時点で異変が起きた。 あるメンバーだけ、全く進捗が無くなってしまったのだ。

最初は適性の問題を疑った。元々遅れが目立つメンバーでもあったため、タスクの難易度が上がって来たことで、彼だけ停滞してしまっているのかと思っていた。 私は彼と仲が良かったため、「わからない所があったら相談して」と毎日のように言っていたが、彼は「ありがとう」というだけで、全く相談をしてこなかった。

それから数日後、一緒に昼食を食べている時、彼から衝撃の告白を受けた。

「俺、全く仕事してないけど、毎日24時過ぎまで残ってるんだ」 「ネットサーフィンで何とか時間つぶしてるけど、20時過ぎたら監視が緩くなるからトイレでゲームとかやってる」 「真面目に仕事やっても意味ないからサボった方が良いよ、先輩から査定のルール聞いたんだけど、残業時間が長い人が評価される仕組みなんだってさ」

何を馬鹿なことを、と思いながらも、思い当たるふしはあった。 彼の進捗があまりに遅いため、上司に相談した際「あいつは遅くまで毎日頑張ってるから許してやれ、あいつを見習ってお前ももっと仕事したらどうだ」と言われたことがあったからだ。

成果主義を強くうたう会社であり、裁量労働制も「成果以外見ないからこその制度」と断言する会社でそんなことがあるだろうか? 疑問は感じたが、「真面目に仕事をすれば、結果は返ってくる」と信じ、サボる彼を置いてタスクをこなすことに集中することにした。

それから約半年が過ぎ、私は新人賞を取った。 新人賞とは、毎年20名前後入る新人の中で、2,3名が投票によって選ばれる賞のことだ。 「自分は正当に評価されている、これなら大丈夫」と少し安心したことを覚えている。

しかし、入社から1年が経過した時点で、私が間違っていたことを理解した。 サボっていた彼の昇給、賞与額は、私を上回っていた。 私に明細を見せながら、彼は「な、本当だったろ」と得意げに言っていた。

彼は1年間、本当に何もしなかった。他のメンバーが100件以上のタスクをこなす中、彼がこなしたタスクは10件にも満たなかった。だが、彼は評価されていた。

私は、社内に2人、尊敬している先輩がいた。上司は信用ならないが、先輩ならきっと答えてくれるはず。そう考え、先輩にこのことを打ち明けてみた。 先輩の答えは、想像を絶するものだった。

「これ、本当は教えちゃいけないんだけど教えるよ」 「この会社では、残業時間×基本給×係数っていう形で、賞与の額を計算してる」 「これは残業代を最低賃金で支払うより遥かに低い額になるんだけど、残業代の変わりが賞与って考えでこうしてるらしい」 「昇給も当然、評価=残業時間なので、そこから計算してる。でも俺はお前のことを上司に推してたから、もっと昇給してると思ってた」 「裁量労働制って言っても、この会社は残業時間が長い人が評価されるようになってる。長く残業すること自体が成果」 「俺も抗議したことあるけど、成果は会社が決めるものだから、全く問題無いって言われた」

話し終えた後、先輩は繰り返し謝っていた。

私はそれから転職活動を始め、約1年後、入社から2年程度経過した時点でその会社を退職した。 その時、20人近く入社していた新人は、3人くらいしか残っていなかったと記憶している。 鬱病を発症した人も、いつからか会社に来なくなった人も数名いた。

これは、裁量労働制を利用する1つの企業の事例でしかない。 しかし、裁量労働制であっても「労働時間を成果とする」ことが可能なことを示している。

ここまで極端な会社は少ないかもしれないが、「遅くまで残ってる=頑張ってる」という感覚評価が当たり前になっている会社は少なくないだろう。

結局のところ、裁量労働制という制度そのものは、自由な働き方を保証しない運用によっては、自由な働き方を実現できる人もいるかもしれない、という程度のものでしかない。

余談だが、あれから10年以上経過し、私も部下の勤怠に対する裁量権をある程度持つようになった。 弊社は裁量労働制は採用していないが、管理対象となる社員の労働時間を8時間換算にして早めに帰らせたり、忙しい案件を終えた際には有給とは別に特別休暇を発行することが認められている。 労働者にとって有利になる処置であれば、運用上取り入れることは可能と社労士からもお墨付きをもらっている。

裁量労働制を導入しなければ自由な働き方を実現できないと思っている経営者の方は、是非、検討してみてはいかがだろうか。